Vol.1映画監督・三澤拓哉 × ミュージシャン・内田怜央(Kroi)
「“その作品だけで終わらない”というのはとても重要」(内田怜央)
三澤作品とKroi。一筋縄でいかない、不可思議な世界は通じる部分がありますね。
三澤「Kroiは好きな音楽のルーツにベッタリせず、時代や、今自分たちが表現したいものがまず先にある感じがとても良いですよね」
内田「“その作品だけで終わらない”というのはとても重要で。これからのミュージシャンは、音楽というカルチャーをしっかり伝えていく役割もあると思っています。ルーツのエッセンスを入れつつ、新しいものをクロスオーバーさせ、自分たちの音楽を作っていく。感覚的には“混ぜる”イメージ。聴いたことないジャンルの組み合わせや、新しい音像を日々研究してます。三澤さんも土台があって、その上に自分のオリジナルがある感覚はありますか?」
三澤「もし自分にオリジナルがあるとすれば、今の時代、この瞬間を撮ってることかな。“今ここに居る”ってことは誰にも変えられないから。また、カメラを通して世界を見るとはどういうことなのか、というのも結構考えます。ただ映し撮る、記録するだけじゃなく、時にカメラは、狙ってないものや音、人間の意識に左右されないものを撮ってくれるので。それを無自覚に大切にしながらやりたい」
内田「とてもわかる気がします」
三澤「最新作『ある殺人、落葉のころに』のキャスト・森優作に“三澤作品は人間とモノをフラットに撮ってる”って言われて。紙コップ、瓶ひとつでも人間と等しく撮ってるので、人間がモノに寄っていってしまう感覚というか、そこに不気味さがあるって。そこはめざしているところのひとつかもしれないなって人の言葉で気付かされました。もう少し深い話をすると、一度カメラに撮られると意味から解放されると思うんです。意味付けして撮っているのはあくまで主観であり、撮られているものは“ただそこに在る”だけ。音楽にもそんな側面がある気がします」
内田「はい。日本の様式美として意味、メッセージを重要視するきらいがあるけど、僕的にはその前提が謎なんですよね。僕らはただ音楽が好きで、そこを突き詰めるだけなので。“歌詞を意味から解放させ、音だけで伝える”というのは、今後めざすところですね。また、無意味なものって一番リアルだと思ってて。それを作品の中に入れることによって、より親近感を抱かせる。キレイに歌い過ぎないことも重要で。雑味が残ってるもの、弾きあぐねてるフレーズにこそ味が出るというか」
三澤「大事な部分だと思う。それは余白を残すことにも繋がると思うし」
内田「質問なのですが、映画の冒頭シーンで『三澤です』っていう台詞があるじゃないですか。あそこで一気に掴まれ、作品に入り込めたんですよね。あの掴みの一手は意図したことですか?」
三澤「脚本にはなかったけど、編集で入れました。スクリーンだけの物語じゃなくて、今、ここに居る地続きで観て欲しかったので、自分が架け橋になろうと。そして、自分の中でふたつの意味を持たせたんです。2017年の撮影当時、陰謀論などSNSでイデオロギーの違いから論争が盛り上がってて。僕的には、一切混ざり合わずにすべてが矛盾なく存在していることに怖さがあって。“自分はどこにいるのか”という感覚を作品に取り入れたかった。この映画はいくつかの層で構成されてるんだけど、“これはなんの話?”って、観てるうちにスクリーンの世界が自分の足元まで広がって欲しかった。あと、格差やジェンダーの社会題材を扱う時、作り手がどこにもいなくなってしまうことがあって。社会問題は自分が今いるこの社会だってことを示したかったんです。自分でケツをちゃんと持つこと。僕にとってこの作品は2作目なので、ここで一度自分のアティチュードを示しておきたかったんです」
内田「すごくかっこいいです。感覚的な部分を言葉にしていただいて、考えてることがとても理解できました。僕らアーティストは言葉で伝わらないから音を鳴らしたり、映像を作ったりするわけで。言葉では共感し辛い部分が今日はすべてスッと入ってきました。ありがとうございました!」