CINEMASPECIAL ISSUE
世界的ベストセラー作家の物語論
人生を変える歩みを映すロードムービー 原作・脚本レイチェル・ジョイスの創作
定年退職した男性が、死期の近いかつての同僚から届いた手紙の返事をするためにイギリスを歩いて縦断する姿を描いた映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』が、6月7日(金)より公開される。 目的地は800km離れた北の果て。一歩、また一歩とかつての同僚のもとへと近づいていくその道すがら、主人公は自身の人生の歩みを振り返り、やがてはその先の人生を変えていくこととなる。
胸を揺さぶる珠玉のロードムービーの原作は、世界37カ国で刊行され、600万部を売り上げたイギリス発の傑作小説。長きにわたって俳優・脚本家としてキャリアを重ねてきたレイチェル・ジョイスが手がけた初めての小説だった。
映画化にあたって脚本も手がけたレイチェル・ジョイスにオンラインでインタビュー。素晴らしいストーリーテラーが語る物語の魅力、その創作の源とは。
取材・文:佐藤ちほ
喪失から何か美しいものを作りたい
──『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』の主人公ハロルドの物語は、どう着想したのでしょうか。
レイチェル・ジョイス(以下:レイチェル) どの物語もどのキャラクターも、いくつかの物事が重なって私のところまでやってきます。ハロルドの物語もそうでした。この物語の中でハロルドはかつての同僚クイーニーのために800kmの道のりを歩いていきますが、病気の方のために長い道のりを歩いた方が実際にいらしたと聞いて興味深いと思ったこと、それがまずひとつ。そして、この物語を思い描き出したちょうどその頃、それまで4年間ガンで闘病してきた私の父が、あと数週間の命だと余命を宣告されたんです。実際に私は父を喪いましたが、こういう複雑な気持ちと人間はどう相対するのかと考えながら、ハロルドの物語を書いていくことになりました。どこか、父に捧げるような気持ちで書いていったところがありますね。喪失という悲しい経験から、何か美しいものを作りたい。その思いが、物書きである自分を衝き動かしたんだと思います。
──800kmの道のりを歩きながら、主人公は自身の人生を振り返り、さまざま思考し、心を動かしていきます。小説では主人公の思考は地の文で描写できますが、映像作品において描写するのは難しかったのでは?
レイチェル 確かに、ハロルドの感情面での真実、彼の思考を映画でどう表現するのか。そこがいちばん重要な部分で、かつ難しかった部分です。まず、映画をご覧になる方は小説は読まれていないという前提で考えていく必要がありました。その前提でハロルドがどんな人物であり、なぜ彼は歩くのか、そこを観客のみなさんに理解していただかなくてはいけないと。そのあたりは、ハロルドを演じてくれたジム(・ブロードベント)やヘティ(・マクドナルド監督)とも撮影前にたくさん話しました。そしてその話し合いの中で、“ハロルドは考えていることが目に映し出されるキャラクター”という共通認識ができた。その共通認識があったからこそ、ヘティは今回たくさんズームを使って撮影しているんです。ハロルドの瞳には秘密の暗号のようなものが映っている。つまり、観客はその瞳を観ることで、ハロルドの感情や思考の手がかりを得られるんです。ハロルドの瞳が映ってから何かが起こったり、台詞が入ったり、あるいはフラッシュバックで彼の過去の経験が映ったりして、“ハロルドはこんなことを考えていたんだ”と、自然とわかるようになっている。小説として書いたものを映画の脚本として再構築するにあたっては、たくさんリライトし、試行錯誤し、注意深く構成を練っていきました。その上で、お話ししたような形で展開させることに。実は、彼の思考や感情を読み取るたくさんのヒントがいろんなところにちりばめられているんです。
──それはつまり、“瞳で多くを物語る”ということで、演じ手の力量が問われるものかと思います。俳優としてのキャリアも積むレイチェルさんだからこそ、演じ手への信頼がひと際厚いのではないかと想像するところですが。
レイチェル それは確かにあると思いますね。言っていただいたように私のバックグラウンドには、演技というものがあります。長年、舞台に役者として立ってきましたから、役者が演じる際にどれほど思考するのか。役者が役に何をもたらすことができるのか。それは十分にわかっているつもりです。だからこそ、脚本を書く時にはあまり決め込まないことを大事にしていて。つまり、表現の余白を残すことを大事にしている。脚本には、役者がそのキャラクターを演じられるだけのヒントを書くに留めます。それだけ役者を大事に考えていて信じているということだと思います。
──俳優が演じている姿を頭の中で想像しながら物語を書き進めることもありますか。
レイチェル あります。『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』の脚本を書いている時はまさにそうで、ジムがハロルドを演じている姿を頭の中で思い浮かべながら書きました。実はアテ書きだったんです。もう何年も前のことですが、シェイクスピアの『冬物語』でジムと親子の役を演じたことがあり、飛び抜けた才能を持つ役者だと知っていたので、想像しやすかったのがひとつ。もうひとつ、書店で小説の読者の方々を前にイベントをするとたびたび、「映画化するとしたらハロルドは誰に演じてほしい?」と聞かれていたんです。私は逆に質問した読者の方に聞き返していました。「あなたは誰がいいですか?」と。そうしたらみんな、「ジム・ブロードベント」って答えるんです。ハロルド役はジム以外の候補はいなかったというぐらいでしたね。あとはジムのスケジュールが空いていて、やりたいと思ってくれるかどうか、それだけだったんです。結果的に引き受けてもらえてとても感謝しています。