FLYING POSTMAN PRESS

染谷将太の映画観、受け継いだもの

文化の拠点を守り続けた家族の90年
『BAUS 映画から船出した映画館』主演
染谷将太が“最高の呪い”にかかった日々

 1925年に吉祥寺に初の映画館<井の頭会館>が作られ、1951年には<ムサシノ映画劇場>との2館体制に。1984年には<吉祥寺バウスシアター>として生まれ変わり、2014年に閉館されるまで、映画のみならず演劇や音楽ライブ、落語などの上演も行い、多くのファンに愛された。

 3月21日に公開される『BAUS 映画から船出した映画館』では、その吉祥寺の文化の交差点を守り続けた家族を巡る約90年を描いている。そう聞くと大河ドラマのような作品を連想するかもしれないが、その類いではない。スクリーンに広がるのは、過去も現在も、この世もあの世も、すべての境界線がなく同時に存在しているかのような独特の世界。約90年の“事象”ではなく“思い”を映していると感じられるような映画だ。

 2022年3月21日に逝去した青山真治監督があたためていた脚本を、青山監督が才能を見出した甫木元空監督が引き継いで完成させ、映画化。<井の頭会館>の社長になるサネオを、青山監督を敬愛し、<吉祥寺バウスシアター>の常連でもあった染谷将太が演じている。

写真:徳田洋平 スタイリング:林 道雄 ヘアスタイリング&メイクアップ:光野ひとみ 取材・文:佐藤ちほ
衣装協力:レザージャケット 396,000円 シャツ 59,400円 パンツ 88,000円(以上、すべてナイスネス/イーライト 03-6712-7034) 



青山監督と甫木元監督の素敵な二人三脚

──『BAUS 映画から船出した映画館』への出演オファーを受けた際、樋口泰人プロデューサーから「青山の呪いに乗っからないか?」という言葉があったとか。

染谷 そうです。聞いた瞬間は思わず笑ってしまいましたが、青山(真治)さんの遺した企画がこんなふうに受け継がれていくというのは、確かに素敵な呪いにかかったようなものだなと納得しました。青山さん不在で青山さんの呪いに乗っかっていくというのも、自分にとっては面白みになりました。

──本作を観ると、亡くなった人たちもそう遠くない場所に“いる”と思える瞬間が多々あります。青山真治監督は不在ですが、存在を感じられる瞬間もあったのではないでしょうか。

染谷 確かにそうで、青山さんがこの世にいないという感じは正直あまりしていなくて。この映画の中でも、亡くなった人たちが近くで浮遊しているというか、ゆらゆらしている感じで描かれていますが、青山さんもそうなんじゃないかな。その辺で煙のように漂っている感じが今もするんです。青山さん自身、“亡くなった人たちはそこら辺に漂っている”というふうに想像を膨らませていた方だったので。青山さん自身の死生観と通じる部分があるのかなと思います。

──青山監督が書き進めていた脚本を甫木元空監督が引き継いで仕上げたそうですが、染谷さんのもとに届いたのは甫木元監督が手を加えた後の脚本ですか。

染谷 僕が最初に読ませてもらったのは、青山監督が仕上げていた脚本のほうです。どうやって撮るのかまったく想像ができないような、とにかく面白い脚本でしたね。その後で甫木元君が手を加え、今の映画の撮影稿ができあがった。青山さんが語ろうとしていたことを受け継ぎつつ、ちゃんと甫木元君の作品になっているというか。すごく素敵な二人三脚という感じがして、最終の撮影稿を読んだ時には鳥肌が立ちました。

──甫木元監督は自分にしか作れない作品を作っている、作家性の強い方だと感じます。

染谷 確かに、すごく素敵な個性を持っている。でも、現場で一緒に作っている時に、“うわ、これはすごい。ここは甫木元君の個性だな”と、こちらに気づかせないのがまた面白くて。冷静に考えるとだいぶ飛んだ表現もあるんですが、誰ひとりとして違和感を覚えないんです。例えば、今回の映画では劇場の入口がハリボテになっています。冷静に考えると飛んだ表現ですが、現場にいる全員がそこに対してなんの違和感も覚えなかった。“こういうものだよね”とみんなが自然と受け止められる、あの空気を作っていたのは間違いなく甫木元君です。そんな空気で撮ったものだからか、完成した映画を観た時もアンリアルな表現を地続きで観られる感覚がありました。

──染谷さんは青山監督と映画『東京公園』(2011)やドラマ『贖罪の奏鳴曲』(2015)で一緒に仕事をされています。青山監督と甫木元監督の演出や現場でのあり方に通じる部分はありましたか。

染谷 現場でのあり方や表現方法は多分、全然違うと思うんです。でも、感覚とか物事の捉え方は近いものを感じました。例えば、さっき話に出てきた“生と死の境界線がない”と捉えているところとか。あと、記憶というものの捉え方もそうですね。記憶というのは本当に起こったことだけでできているのではなく、もっといい加減なものだと。自分の中で作りあげてしまったものも混ざっていたりと、実はあいまいなものなんだと。そんなことを青山さんも甫木元君も作品を通して伝えているような気がします。