エンターテインメントフリーペーパー フライング・ポストマン・プレス

フライング・ポストマン・プレス

東北ライブハウス大作戦Column

“集めさせられた場所”じゃなく、
自分の意思で、自分の足で集まれる場所を作りたかった。

東日本大震災からもうすぐ4年。3.11の震災後、音響エンジニアチーム「SPC peak performance」で『東北ライブハウス大作戦』プロジェクトを立ち上げ、宮古、大船渡、石巻の3カ所にライブハウスを建てた西片明人に話を聞いた。これからも続く復興への長い長い道のり。あの日を決して忘れず、“今からできること”をもう一度考えてみたい。

main

――2011年3月11日のあの日、どこで何をしていましたか?

「ASPARAGUSの現場で下北沢シェルターにいました。ちょうど搬入が終わり、コンビニで買い物をしてる時に揺れ出しました。すぐに現場に戻りライブをどうするか相談し、僕的にはやりたかったんですが中止になりました」

――東北ライブハウス大作戦を立ち上げた経緯を聞かせてください。

「震災後、向こう3カ月のライブブッキングが白紙になりました。僕は腑に落ちなかった。直結できないことはわかっていたんですが、今自分ができることが武器になるんじゃないかと思ってたので。とは言え、所謂音楽家が音楽で何かを発信するとか“音楽の力”みたいなのはあんまり信用してないというか。何ができるかなんて、何もできないと思っていたので」

――そこからどう震災と向き合っていったのですか?

「SLANGやBRAHMANなど、僕のレギュラーのバンドや仲間たちがすぐに自力で物資を運び出したことがきっかけです。でもそれは音楽家として直接的なことじゃなく、人としてですよね。それを手伝ってました。そして3月末からBRAHMANがミニマムの形で水戸や仙台、盛岡、福島とかでライブをやり始めたんです」

――まだまだ混乱していた3月末。

「今はボランティア活動を中心に動いている幡ヶ谷再生大学ですが、その頃は仲間内の遊びサークルだったんです。そのチームで大きな余震や停電が続く中、“幡ヶ谷再生大学○○キャンパス”と名打ってお昼からライブをやり、そのサポートをしていたんですが自分の中では葛藤があるわけです」

――BRAHMANがライブをするのでPAとして手伝う。それは“いつものこと”、と。

「はい。ジレンマとイライラが募っていく中、メンバーとも近い関係なので普通に揉めるんですよ。“お前は何をやってるんだよ。やれることはそれだけか”って」

photo1

「現地の人たちと話もしてるけど情報の大半はテレビやネットなので、実感が湧かない。インプットがしっかりできてなかったんですよね。4月に盛岡へ物資を運びに行った時、時間あったら沿岸部を見に行ってみてくれと言われ、宮古、山田、大槌とかを周ったんです。ぐちゃぐちゃで地獄みたいな光景を見て、そこでまた思い知るわけです。“僕は何もできない”って。またある日、避難所にトランプやけん玉とかを子どもたちに配ってた時におばあちゃんから、“お兄さん東京から来たんでしょ?ひとりでもいいから連れて帰ってくれないか”と言われたんです」

――子どもをですか?

「そう。僕も最初意味がわかんなかった。現場を離れ聞いてみたら、親も兄弟も家もみんな失くしてしまった子どもなんですよね。そんな子どもたちがいっぱいいた。東京に帰ってすぐに都庁へ行き、震災孤児の引き取り申請を出しに行ったんですが、仕事柄、年に半分以上家にいない僕が引き取れるわけないんですよね。そこでまた“何もできない”と痛感。一丁前にキャリアだけは積んだけど、人としては何もできないって」

photo2

――その後どう気持ちが動いたのでしょうか?

「ひとつのきっかけは、4月11日の月命日。2:46に沿岸部から海に向かって手を合わせて黙祷しました。目を開けるとすぐ横で遺体が並んでいる状況の中、僕の仲間も見つかってなくて遺体安置所に行ったりして。安置所って自分の意思じゃなく“集めさせられた場所”じゃないですか。その時に、“集めさせられた場所”じゃなく、“人が集まる場所が必要だ”とザックリ感じたんです。でもそこからまだアウトプットができない状態が続くわけです」

――今までの経験値じゃまったく受け止められない事象ばかりでしたもんね。

「体の中で消化不良を起こしていて、それを吐きだせだのが6月12日。SLANGのKOが宮古市の魚菜市場の駐車場で、老人から子どもまでが参加できる『POWER STOCK』というイベントをやったんです。その現場へ向かう道中、“あ、ライブハウスを作ろう”って降りてきた。その日の夜、今、宮古支部長をやってる太田(昭彦)に“ライブハウスを作りたいんだけど、一緒にやんないか?”って打診したら、“やります”って即答してくれた」

――そこで産声を上げたんですね。

「“俺は機材を集めるから、場所を探してくれ”って、たったそれだけでスタートしました。その後は頭の回転数がグングン上がり、“宮古だけだと点で終わってしまうけど、沿岸部にライブハウスを建てればツアーのルートとして組み込んでもらえる!”って。そこから大船渡、石巻と以前から交流のあった人たちに連絡を取り合い、思いの丈をぶちまけていったんです」


PR

FLYING POSTMAN PRESSは全国5都市で配布しています。